防衛庁で何が起きているか
 あきれた暴走の内幕
『世界』2002年8月号(岩波書店)


小久保一郎

屈折した人間関係

 「暴走」という言葉が「思慮分別を欠いた行動」を意味するなら、その代表選手が防衛庁だろう。制服組をコントロールする背広組の内部部局(内局)、制服組の総本山といえる陸上、海上、航空各幕僚監部。いずれも目を覆いたくなる体たらく。もうだれも「防衛省」に昇格させようなんて妄言は吐かないに違いない。

 防衛庁が墓穴を掘ったのは個人情報リスト問題である。五月二八日、情報公開請求に来た人の個人情報リストが作成されていた問題が報道された。その日の夕方、柳沢協二官房長が調査結果を発表、リストは海幕情報公開室の三佐が作成したもので、庁内の六人に配布したと事実関係を明らかにした。

 鈍重な防衛庁にしては素早い対応で、柳沢氏も「さすが元広報課長だけのことはある」と記者受けも上々だったが、この後、拡大する一連のリスト問題で手際がよかったのはこの日だけだった。

 海幕三佐のリストをめぐり、柳沢氏は同じ週内に二回、訂正会見するはめになる。リストが渡った人数を変えたり、受け取った人物の階級を訂正したことで、報道陣は「何か隠しているのではないか」と疑い、質問は執拗だった。

 いずれも悪意のない事務的なミスだったのだが、柳沢氏が単純な事実関係さえ説明できなかったことから、海幕幹部から「なぜ官房長が知らないのか」といった新たな疑問が示される。

 調査状況は連日、海幕人事教育部補任課から内局人事教育局人事一課へと正式に報告されていた。しかし、柳沢氏にはほとんど伝わらなかった。そこには庁内の“有事”を逆手にとった人事抗争が隠されていたのである。

 人事教育局長の宇田川新一氏は柳沢氏の一期後輩で壮絶な事務次官レースを展開する守屋武昌防衛局長の同期に当たる。守屋氏とは必ずしも親密ではなかったが、防衛施設庁次長から人事教育局長への抜擢は守屋氏の引きとされる。

 一方、官房長を支える役割の長官官房筆頭課長、金沢博範文書課長は、守屋氏の側近とされる人物。柳沢氏は同僚と部下から情報過疎の状況に追い込まれたというのが庁内の一致した見方だ。屈折した幹部間の人間関係は、汚染された川のようにリスト問題という汚物を沈め、時に浮かび上がらせていく。

 翌週になると、防衛庁は自ら招いたカラ騒ぎで、火に油を注ぐ。一部新聞が個人情報を含んだリストが陸幕LAN (構内情報通信網)に掲載されているとの疑惑をつかみ、取材を開始。伊藤康成事務次官が慌てて、再調査を命じ、週明けの三日に発表した。

 発表は内局、陸幕、空幕で作成していた個人情報を含んだ「進行管理表」がそれぞれのLANに掲載され、庁内で閲覧できたという内容で、リスト問題は一気に「組織ぐるみの犯行」に拡大する。

 だが、この発表は報道に先行されるのを恐れるあまり、どの点が「行政機関の保有する電子計算機処理にかかる個人情報の保護に関する法律」に違反するのか、同法所管官庁の総務省の判断を抜きにしたお粗末な内容でもあった。

 発表から二日後、持ち込まれた進行管理表について総務省は「違法性なし」と結論を出すが、既に手遅れ。リスト問題が最初に報道された直後にそれぞれのLANから進行管理表を削除した事実が「証拠隠滅」と報道され、リスト問題は新たなステージに移行した後だったからだ。

 進行管理表が違法か否かという基本的な事実確認を怠り、発表に踏み切る。しかも中谷元長官は「言語道断の行為が発覚した」と自ら記者会見を開いて、頭を下げている。陳謝は事務方の振り付けだったことから、温厚な中谷氏が「恥をかかされた」と伊藤氏をなじったのは当然といえば、当然の話だろう。

 こうした対応を今国会に提出された有事関連法案に基づく対処方針に置き換えれば、相手国に攻撃の意思がないにも関わらず、激しい訓練を開始したり、艦船が集合するのを察知しただけで「日本が攻められる」と勘違いし、防衛出動をかけてしまうのと同じことだ。

 拙速といわずして何と表現すればいいだろう。これが国防という最大級の危機管理を担当する役所なのだから、国民は安心などしていられない。その責任を負う立場の伊藤氏が「ぼくが辞めればいいんだ……」と涙目で漏らすのだから、行政組織のトップとして情けない限りだ。

報告書隠しの舞台裏

 だが、リスト問題はまだ終わらない。一連の経緯をまとめた調査報告書ができ上がり、六月一一日午後、国会内の与党三幹事長・国会対策委員長会談の場に宇田川人教局長が持参した。報告書は三八ぺージからなる「海幕三等海佐開示請求者リスト事案等に係る調査報告書」と、報告書をコンパクトにまとめた四ページの「報告書の概要」だった。

 「報告書が長すぎる。発表するのは概要だけでいい」

 三幹・三国の話を防衛庁に持ち帰った宇田川氏はその足で長官室に入り、中谷長官と伊藤氏に報告した。その結果、公表するのは「報告書の概要」だけとして表紙を「報告」と書き直し、さらに三幹・三国で指摘された「証拠隠しを行なったと言われてもやむを得ない」との部分を削除して、公表の矮小化を図った。

 ところが、人事抗争が原因か、三流官庁らしい落ち度なのか、ある幹部が前もって報道陣に「報告書は四〇ページ前後」とバラしていたのだから、それで事態が収まるはずはない。調査結果を公表した記者会見で「報告書の概要」を「報告書の全て」と説明を受けた報道陣は当然、「本文はどうした」と猛反発する。野党にも追及され、追い込まれた防衛庁は最後はすべての報告書を公表したのだった。

 この顛末は新たに「報告書隠し」と報道され、シロだった進行管理表の公表問題に続いて、防衛庁自身が引き起こした騒動はさらに拡大したのである。

 なぜ、四ページの報告書で収まると思ったのか。「防衛庁のドン」とされる自民党の山崎拓幹事長(元防衛庁長官)に弱小派閥、加藤派出身の中谷長官が逆らえないという事情もあるだろう。

 だが、元凶は伊藤氏の指導力不足にこそある。伊藤氏は一九九八年、明るみに出た防衛庁調達実施本部の背任事件をめぐり、資料を廃棄したり、隠した組織的な証拠隠滅工作の問題を当時の防衛審議官として経験している。

 この時、公表された中間報告書が証拠隠滅について「確認されていない」「把握できない」のないないづくしだったことから批判を浴び、額賀福志郎長官が辞任に追い込まれ、秋山昌廣事務次官ら複数の幹部が退官を余儀なくされた。伊藤氏は「あの時、新聞に『わずか一〇ページの報告書』と書かれてショックだった」と話していたが、四年後同じ轍を踏んだのである。

 だが、彼一人を責めるわけにはいかない。伊藤氏は今年一月には、防衛施設庁長官として役人人生を終えるはずだった。ところが、昨年の米同時多発テロをめぐる対米支援の内容がマスコミに漏れたことに激怒した福田康夫内閣官房長官が佐藤謙事務次官を事実上、更迭し、伊藤氏に急きょ、事務次官のポストが回ってきた。事務次官になることを想定していないから庁内人脈もなく、孤立無援。パイプ役となるべき柳沢氏が情報過疎に追い込まれて、自ら動き回るしかなかった。その柳沢氏は幹部間で意地悪をされただけでなく、LAN掲載の案件発覚後、中谷長官からの信頼を失い、調査責任者から解任される。調査責任者は人事教育局長の宇田川氏が任命されたが、事実上の指揮権は防衛局長の守屋氏が握った。

 柳沢氏の前任官房長はほかならぬ守屋氏だ。氏が官房長の時に情報公開室が開設されており、調査対象者が調査の指揮を執るのはまずいとしながら守屋氏は例外という扱い。その守屋氏は庁内の会議で「与党との調整の不手際の責任はだれが取るのか」と国会対策の任がある官房長を堂々と批判し、死に体だった柳沢氏にとどめを刺した。

国民は「敵」なのか

 防衛庁は六月二〇日、二九人の処分とともに同時に柳沢氏、金沢氏の更迭人事を発表した。調査報告書を読む限りでは一番責任が重いと読める伊藤氏は中谷長官の慰留で現職にとどまった。何の処分もなかった守屋氏について「なぜ前官房長は処分がないのか」と記者に聞かれた宇田川氏は「そこまで遡らなくていいだろう」と回答したが、前任者として処分を受けた人もいたから、説明にならない説明ぶりだ。

 庁内の人事抗争が騒ぎを拡大したことの真相は闇に葬られ、ドタバタのうちに柳沢氏が次官レースから脱落し、守屋氏が次官職を確実にするという後味の悪い結末を迎えたのである。

 だが、今回のリスト問題の本質を振り返るとき、防衛庁に情報開示を求める国民をあたかも敵であるかのような扱いをした点にこそ、問題の核心があることを忘れてはならない。国防を任務とする防衛庁には、もともと秘密が多い。過去には秘密文書が漏洩したスパイ事件も発生しており、防衛庁が文書の扱いに慎重になるのは当然のことだ。しかし、秘密保全を強調する余り、行政情報の公開が国民主権を根拠にした「知る権利」に答える目的であることを理解していない。

 違法な個人情報リストを作成した海幕三佐は「上司から『どんな人か』『何のためか』と聞かれるので業務上、あると便利と思ったリストを作った」と答えた。情報公開法の「何人(なんぴと)も」「目的を問われず」という趣旨を上司から担当者まで無視していたわけだ。

 リスト問題発覚後、庁内から「不正リストの漏洩こそが問題」という声が上がったが、こうした意識を変えない限り、個人情報の不正取得や不正使用は、水面下に沈み、巧妙化するだけだろう。「見えないところなら、何をやってもいい」という国民を馬鹿にした小役人の姿が見えるから国民は防衛庁を決して信用しないのだということを防衛庁は分かっていない。

制服組と若手議員の結託

 暗躍しているのは内局ばかりではない。制服組の活動も国民の目につかないところで、過去になく活発化していることを次に報告したい。

 米同時多発テロの発生から間もない昨年九月二一日深夜、私服に着替えた海上自衛隊幹部が安倍晋三官房副長官の自宅を訪ね、「政治家は腹をくくってほしい」と直訴した。

 幹部はテロ対策特措法で自衛艦が「危険な場所」に派遣されることを前提に、武器使用の制限を緩めることへ理解を求めた。そして「隊員がけがをしたり亡くなったりした時に、政治家が『すぐ帰って来なさい』というのであれば初めから出さないでもらいたい」と話した。海自幹部はいう。

 「同時テロ発生後、防衛庁の内局が考えたのが政府専用機を送り込み、邦人を輸送すること。全世界がテロに対抗しようという時に自国民だけ助けようとする。これではだめだ、米国の信頼を失うと思った。現行法でも情報収集を根拠に自衛艦をインド洋に派遣できる。手分けして国会議員を説いて回った」

 その成果なのだろう、護衛艦や補給艦はテロ対策法に基づく実施計画の策定を前にしてインド洋に向けて出港する。内局を跳び越え、海上幕僚監部が防衛政策をハンドリングした瞬間だった。

 現在、インド洋に派遣されているのは護衛艦三隻、補給艦二隻。各国の海軍が次々に艦艇を引き揚げ、ピーク時の八十数隻が二十数隻にまで激減しているにもかかわらず、海上自衛隊の派遣規模は派遣開始当時と変わりない。

 それどころか海自は時限立法であるテロ対策法が切れる二年間にわたり、対米支援を続けるハラづもりでいる。内局には派遣打ち切りの声もあり、海幕対内局の水面下の争いは激しさを増している。

 テロ対策関連では、陸上幕僚監部の佐官たちもひそかに国会議員を回った。自民党の山崎拓幹事長を中心に国会では「自衛隊をアフガニスタンの地雷除去に派遣すべきだ」との声が上がり、凍結されていた国連平和維持軍(PKF)参加の解除をめぐる国会審議が始まった昨年一一月のころだ。

 陸幕は「自衛隊に地雷除去の専門技術はない。そもそも地雷除去は地元の戦後復興の一つで専門のNGO(非政府組織)や地元民に任せるのが世界の常識」と主張し、派遣は見合わされた。「先生方にご理解いただいた」と幹部は振り返る。

 自衛隊が臆病なわけではない。国連平和維持活動(PKO)の武器使用基準が中途半端で、他国の軍隊では許される「任務遂行妨害を排除するための武器使用」まで認めなければ、攻撃されても反攻に出られず、部隊が全滅するから派遣されては困ると判断したに過ぎない。

 裏を返せば武力行使を禁じた憲法の制約を乗り越えてもいいなら派遣命令を受けるという意味だ。平和主義などでは決してないことを理解しなければいけない。

 陸幕による舞台裏の工作は有事法制関連法案の国会審議でもうかがえる。法案は仮想敵国のソ連を想定した一九七〇年代の有事法制研究を今ごろになって、法律化しようという間抜けな作業だ。

 古文書のような旧態依然とした内容に肉付けしただけの法案を不備とみる陸幕の意見を、内局や内閣官房は法案に反映させなかった。そこで何とか法案を修正しようと国会議員に直訴する挙に出たのである。こうした制服組のロビー活動を苦々しく思う内局幹部はいう。

 「自衛隊幹部の大半を占める防衛大学校の出身者は、既に二〇期以降が大半。一〇期までの防大卒が持っていた太平洋戦争の反省は彼らにはない。海外留学組も増え、軍事的合理性だけで物事を判断するのが特徴の世代だ」

 そんな制服組と彼らをシビリアンとしてコントロールすべき国会議員の若手が結託している。自民党の石破茂(元防衛庁副長官)、浜田靖一(元政務次官)、米田建三(元政務官)の各衆院議員による国会質問には制服組の意見が反映されているというのが内局幹部の一致した見方だ。

 場合によっては自衛隊を「外交の道具」として活用したい外務省と手を結ぶこともある制服組は内局にとって、まさに獅子身中の虫。リスト間題では馬脚を現した内局も「制服組の独走は許さない」とマスコミを利用した裏工作を画策中とされる。こんな防衛庁にあなたは国防を任せるのか、総務省は一度アンケートでもとってみたらいい。

(こくぼ・いちろう ジャーナリスト)
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