4.漁業問題の解決

 L-4S-3の失敗の後、1年5ヶ月にわたり内之浦でのロケットの打ち上げが中止された。

 漁業問題は「ロケット実験絶対反対」にまでこじれていた。科学技術庁は「種子島周辺漁業対策協議会」

を作り、文部省、防衛施設庁とも連携し対策を練ったが、はかばかしくなかった。

 最終的に「絶対反対」を「条件闘争」にまで沈静化するのに成功したのは、鹿児島県出身のある代議士の

説得活動によるところが大きかったと言われた。個人補償では、個人レベルまでいけば「手拭い一本」になって

しまうところを、漁業組合ごとに岸壁や、倉庫を建てるといった「施設援助」による補償方法で解決しようという

試みがなされた。これは世に「鹿児島方式」と呼ばれた。

 ともかくこの補償方式で1968年8月20日、文部省、科学技術庁、防衛庁と鹿児島県、宮崎県などの各漁連との

間で調印式が行われた。

5.再び宇宙へ

 3号機の後、不具合対策は進められていた。ロケット実験は再開され、1969年1月16日に三段式観測ロケット

L-3H-4号機が打ち上げられた。しかしL-3H-4号機はブースターを切り離したときの反力が大きすぎ、全段

バラバラに分解し海面に落下するという派手な事故を起こした。

 度重なる失敗で、このままL-4S-4号機を打ち上げられる雰囲気ではなくなった。

 ここで軌道投入能力をなくしたL-4T-1号機で空打ちをし、総合システムの確認を行うことになった。このロケ

ットは最終段の推薬を60%まで減量したものだったが、せっかくの実験に衛星を搭載しないことなどに大いに不満

な者も多かったという。しかし着実にシステムを確認するにはこれしか手がない所まで、当時実験班は追いつめられ

ていた。

 1969年9月3日、L-4T-1は打ち上げられた。第3段までの飛翔は正常だった。しかし第4段の姿勢制御に移ってすぐ、

第3段が第4段に2度、追突してしまった。

 第3段の残留推力でそのまま加速を続け、上段に衝突したのだ。衝突は第4段の重心近くで起こったため第4段の姿勢

の乱れは小さく、すぐに姿勢も回復していた。L-4T-1は発射19分後、内之浦東方4600kmの太平洋に落下した。

 追突対策として第3段の切り離しを15秒遅らせ、残留推力の減衰を待つ対策がとられた。もしL-4T-1がフル推薬と

衛星を搭載していれば、このとき日本初の衛星が誕生していたかもしれないと言われた。

                              L-4S-4号機 (C)宇宙科学研究所

 1969年9月22日、L-4S-4号機の打ち上げ。第4段目の姿勢制御までは順調だった。だが第3段は残留推力のため

250kmも第4段を追いかけ発射後211.25秒、2度にわたりまたしても追突した。第4段は姿勢を回復できぬまま東北方

に飛び去った。

 原因は第3段の残留推力の過小評価にあったとされた。5号機では第3段を切り離した後減速させる、レトロモータが

取り付けられた。

6.願い実る

 

                      L-4S-5号機 (C)宇宙科学研究所

いよいよ1970年2月11日、かのウルトラマンと同じ、銀色の機体に赤のラインのL-4S-5号機が、紺碧の空に紅蓮の炎

を曳いて飛び立った。

                           L-4S-5号機のリフトオフ (C)宇宙科学研究所

今度のシークエンスは正常だった。発射6分47秒後とうとう最終段ロケットに点火、32秒間正常に

燃焼して内之浦の可視領域から飛び去った。あとは追跡援助を依頼しているNASA(アメリカ航空宇宙局)からの報告

を待つ以外にない。重ぐるしい空気がながれた。

 やがてNASAゴダード宇宙飛行センターから、直通電話が入った。「ハワイ追跡局が第4段の136 MHzの電波を受信」

次にエクアドルのキト、チリのサンチャゴからも受信報告が入った。そしてNASAからの祝電「おめでとう!この衛星

の国際標識は1970-011Aだ。」。

 日本側はまだ心配していた。一周していない内に落下してしまってはそれこそ一大事だ。

 打ち上げ後2時間半ほど経った午後3時56分10秒、内之浦でも衛星の電波を受信できた。続いて宇宙開発事業団の沖縄

局、勝浦局、郵政省電波研究所鹿島支所が次々と受信報告を入れてきた。

 実験班もようやく、初の衛星誕生を確認して「衛星軌道投入成功」の場内放送を入れた。

 最終軌道は周期145分、遠地点5150km、近地点335kmだった。

 冬の日が暮れかかる頃、記者会見が始まった。実験班の180余名を遙かに越す報道陣に囲まれ、玉木章夫はこぼれんばかり

の笑顔で発表した。「打ち上げ地にちなんで、この衛星を『おおすみ』と命名します。」

                「おおすみ」 (C)宇宙科学研究所

 記者団に現在の心境を聞かれた斎藤成文は、「中学の入学試験に合格したような気持ちです。」と答えた。

 待機していた街の人たちは祝砲を合図に日の丸の小旗を振りながら旗行列に繰り出し、夜を徹して成功を喜び合った。

 「おおすみ」は化学電池だけを搭載しており、寿命は数日と推定されていた。第2周回目の午後6時半から、内之浦で

11分間受信できたテレメータは翌12日午前4時30分、南アフリカのヨハネズバーグ局での受信を最後に途絶した。第1

周回目の内之浦でのテレメータから考え、第4段モータの燃焼熱が蓄積し予想外に高温になったため、推定15時間

で寿命が尽きたものと考えられた。

 この「おおすみ」の成功の前には、実にいろいろな予期せぬことが起こった。それを一つ一つつぶしていく過程で

日本は衛星を自力であげる実力を手にしていった。まさに「失敗は成功より尊い」とも言えるかもしれない。

 わずか24kgの小さな衛星「おおすみ」誕生に至るまでの苦闘は永久に忘れ去られないだろう。

 そして我々も、成功の陰の失敗を忘れてはならない。

                           飛べ!ウルトラマン・カラーのラムダ・ロケット(下) 完

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