1.軌道への挑戦
1960年頃、到達高度1000km以上の、内側バン・アレン帯に到達する性能をもつロケットの開発が望まれ、
それまであったカッパ(κ)・ロケットに続くラムダ(λ)ロケット計画が、そして高度10000kmの外側
バン・アレン帯を狙うミュー(Μ)ロケット計画が構想された。
ラムダ・ロケットは1963年、L-2型1号機で初飛行し、その前年に作られた「人工衛星計画思案」が次第に
現実の色を帯びてきた。1965年、Mロケットを用いる科学衛星計画が学術会議を中心とした討議の結果、公表
された。その試験機として三段式L-3Hの上に4段目を載せたL-4S型ロケットの計画が進み始めた。
鹿児島県内之浦にロケット射場が移って2年後の1964年、東京大学の生産技術研究所のロケット・グループ
の科学者たちは、東京都目黒区駒場にある航空研究所の人たちと合併して、東京大学宇宙航空研究所(いまの
文部科学省宇宙科学研究所、ISASの前身)を創設した。本部は駒場に置かれた。
実際の開発に当たっては、既存のカッパ、ラムダ・ロケットを使い、要素要素の試験を行って開発の効率化を
はかることを狙った。このころ、ラムダ3型の第2と第3段を改良し、第4段に球形ロケットモータを使用すれば
小型ながら人工衛星の軌道投入能力を持たせ得ることが分かっていた。これを「L-4S計画」とよび、まず第
2段と第3段を改良しL-4Sとほぼ同じ外形を持つL-3H型ロケットの完成に取り組むことになった。
L-3Hの1号機は1965年に打ち上げられたが、第2段のスピン不足のため異常飛翔してしまった。しかし7月の
2号機は完璧に飛翔し到達高度は2000kmをマークした。
2.苦難の道のはじまり
人工衛星を、地球を回る軌道に投入するには、何らかの軌道制御技術が必要なのは言うまでもない。
が、未だ未知の世界に飛び込んだばかりの日本には、その経験はなかった。
そこで考えられたのが無誘導打ち上げ方式、別名「重力ターン打ち上げ方式」であった。
驚くなかれ、この制御方式は最終段の第4段目に一回だけ、スピンを一度止めた間制御を開始し、その後
再び「リスピンモータ」(もう一度スピンをかける小型ロケット)でスピンを与え、第4段燃焼中に姿勢安定
をはかるものだった。
それまではどうするか。第1段目は尾部の(ロケットとしては)大きな尾翼で空気力学的に飛翔を安定させる。
続いて第2段は2段目の尾翼とスピン(機体の進行方向を軸とする回転)を併用し安定させる。第3段は第2段で
かけたスピンを受け継ぎ安定を保つ。この第3段の燃焼終了直後、一度デスピンモータでスピンを停止させ、第
4段の姿勢制御を開始、第3段軌道の頂点で局地水平に向ける。このとき姿勢制御を静定させ第4段の燃焼を開始
させ、再びリスピンモータでスピンを開始し、軌道に投げ込む。大まかには以上のような飛翔をもくろんだ。
1966年9月26日、最初の軌道への挑戦が始まった。
L-4S1号機の第1段、第2段は正常に燃焼した。しかし第3段の燃焼中、軌道が上向きに10度、北向きに20度も
逸れ、第4段点火後デスピンモータに着火せず姿勢制御が行われなかった。
1号機は発射後20分、電波受信可能範囲から没した。
この第3段の異常飛翔の原因は、第2段と第3段の切断機構がうまく機能せず、切り離しが正常に行われなかったった
めと考えられた。
またデスピンモータは、第2段燃焼中に電源が故障、デスピン停止の信号がすでに発生したため着火しなかった。
その後、分離機構は分離ナットが全て同時にかつ確実に動作するよう信頼性の向上が行われた。また電源部も
信頼性確保の対策がとられた。
第2回の挑戦は1966年12月20日に行われた。(こんなピッチでに同型のロケットが打ち上げられるのは、現代
では考えにくいことでもありますな。)
今度は第3段目までうまく飛翔した。が、デスピンモータが点火せず1.6HZのスピン(毎秒1.6回転)が残った。
しかし姿勢制御装置は正常に動作したにもかかわらず、第4段は点火しなかった。これは点火以前にデスピン時、
異常なねじり力が最終段と制御部に働き、それらの結合がはずれていたためと考えられた。
3号機以降、最終段の耐ねじり強度の向上とデスピンモータの空力加熱に対する防護策が採られたことは言うまで
もない。
3.3度目こそ〜ロケット打ち上げ実験の中止
第3回目の打ち上げは1967年4月13日。ここでも第2段までの飛翔は正常だった。だが第3段に点火することはなか
った。危険防止のため、保安コマンドを打って最終段の点火を中止、3号機は太平洋の藻屑と消えた。
デスピン〜リスピンの間姿勢制御は完全に行われたが記録から再び最終段と制御部の結合がはずれていたことが分か
った。第3段は点火装置が働いていたにもかかわらず推薬に着火していなかった。これは点火薬の燃焼時間のばらつきで
あったと考えられた。
また最終段の結合がまたしてもはずれたことに対しては、第1段の分離時の荷重が最終段にとって大きすぎたことが
考えられ、第1段の切り離し部、最終段結合部に改良が施された。
しかし問題はロケットばかりではなかった。
ロケットを打ち上げる間、危険防止のため漁業が出来なかった。内之浦がある鹿児島県の漁民のみならず、漁場に展開
している宮崎、大分、高知、愛媛、そして広島の漁業組合を巻き込んで打ち上げ反対運動が起こったのだった。
科学技術省は文部省、防衛施設庁と各省連絡会を作り交渉に当たった。
だが、交渉は難航するばかり。事態はいっこうに進展しなかった。
1年以上にも及ぼうという、大きなブランクが科学者たちの前に立ちふさがった。
(上編 了)